「ミレルヴァーナの夕闇」  その@


 エト・カシミスは涙に濡れた瞳で、薄暗い道を歩いていた。石で出来た家々が軒を連ねる。開いた窓から焚火の光が漏れている。真夜中だからか、家の中も道からも人の気配は無かった。
 カシミスは真っ赤に腫れた瞳で、道の果てを見つめる。そして、街の真ん中にある巨大な湖を目指し、足を進めていく。
「‥‥」
 カシミスは死のうと思っていた。世界で最も愛していた妻を病気で失い、人生の何もかもが崩れていくような絶望感に打ち拉がれていた。高熱を出し、うわ言のように自分の名を呼ぶ妻。朝も夜も一時も離れず手を握り締めていたカシミス。しかし、そんなカシミスの願いも虚しく、妻はついさっきその命の燈を消した。
 何も出来なかった自分。世界で唯一、自分を愛してくれた人の死。心の奥から永遠と湧き出る憎悪がカシミスを支配していく。カシミスは思った。この憎悪はきっと俺が死ぬまで消えない、と。
 だから、カシミスは死のうと決めた。


 目の前に何も言わずにたたずむ巨大な湖、ミレルヴァーナ。どんなに乾期が続こうとも決して枯れる事の無い湖。人は自然とこの湖に集まり、そしてこの街が生まれた。
 蒼く、湖の底は決して見えない。しかし、それは昼間だけで、夕暮れ時から夜、そして朝方にかけてまで、その湖の水は完全な透明になる。夜、その湖を見ると、まるで水が無いかのように見えた。
 夜にだけ見える湖の底には、無数の死体が漂っている。病気で死んだ者、他国との争いで死んだ者‥‥。彼らの骸が、湖の底には横たわっている。腐る事も無く、息絶えたその瞬間の姿のまま。
 何人もの人々がそれを見て死体を引き上げようと湖に飛び込んだ。しかし、誰一人として、その死体を引き上げられた者はいなかった。逆に、皆溺れ死んで、底の死体達の一つになっていった。
 どんなに泳ぎの得意な者でも、この湖に入ると必ず溺れてしまった。浮かべる舟はことごとく沈み、人々は湖の水を汲み上げて使う以外、何も出来なかった。
 ミレルヴァーナの湖の真ん中には、小さな小島があった。そこには一軒の小屋が建てられていた。しかし、誰が建てたのか分からず、まして誰が住んでいるのかも謎だった。泳ぐ事も、舟を浮かべる事も出来ないので、誰もその小屋に辿り着けず、街が生まれてから数百年、小屋は無人のまま有り続けた。


「‥‥」
 家も疎らになった時、カシミスの視線にミレルヴァーナの湖が見えた。夜の為、水面は透明になっている。
 湖の際に立ったカシミスは、透明になった湖の水を両手ですくい、一口飲んだ。冷たい感触が喉を通り過ぎていく。湖の底には無数の死体があるのに、水は美味しく、枯れた涙を癒した。
 カシミスは瞳を閉じ、大きく息を吸い込むと、そのまま湖に飛び降りた。
(後を追おう。フロリアよ)
 妻の名を心の中で叫んだ時、カシミスの体は既に湖の奥深くに吸い込まれていた。


 波の音が聞こえる。足先から腰に冷たい感触がある。目ぶたの向こうから、陽の光を感じる。カシミスはゆっくりと目を開ける。黄色く輝く太陽があった。
「‥‥」
 カシミスは体を起こした。遠く向こうに、見慣れた街がある。カシミスは辺りを見回した。そこは、歩くまでもなく、全てが見渡せてしまう程の小さな小島だった。島の真ん中には木で出来た小屋がある。カシミスは自分の目を疑った。
「‥‥そんな、バカな」
 ここはミレルヴァーナの湖の真ん中にある、あの小島だった。この小屋にはカシミスは見覚えがあった。遠くから見つめる事しか出来なかったあの小島に、今カシミスはいた。
 一度沈んだら二度と浮き上がる事など無いはずなのに‥‥。なのに、何故自分は今ここにいるのだろう? 分からない。神の悪戯か?
 だったら神は残酷だ。自分は死にたかったのだ。なのに、生き残らせてしまうのだから。
「‥‥」
 カシミスはゆっくりと立ち上がった。衣服が水を吸い込み、とても重く感じる。カシミスは一歩一歩確かめるように、その小島の周りをぐるりと歩いた。
 そして、カシミスは再び自分の目を疑った。女が倒れていた。ちょうど、島の反対側だった。金色の髪の毛の若い女が目を閉じて、静かな波に体を揺らしていた。カシミスは彼女に近寄り、口元に耳を当てた。息がある。まだ、生きている。カシミスは彼女の肩を揺さぶり、声をかける。
「おい、大丈夫か?」
 この女もこの島にいる。何故こんな事が起きるのだろう。無反応の女の肩を揺さぶりながら、カシミスは思う。この女も自分と同じように死のうとしたのだろうか? もしくは誤って湖に落ちてしまったのだろうか? 
「‥‥んっ‥‥んん」
 女の口から声が漏れる。呻きにも似た声だ。カシミスは彼女の頬を軽く叩く。
「おい!」
「‥‥んんんっ」
 彼女はゆっくりと瞳を開く。透き通った碧い瞳が、カシミスを見つめる。カシミスは安心してホッとため息をつく。
「‥‥誰? あなた」
 囁くような声で、女は訊ねる。カシミスは女の上体を起こす。
「俺はエト・カシミス。‥‥君は?」
「私? 私は‥‥エルメ。マウロ・エルメ」
 エルメは焦点の定まらない瞳でカシミスを見つめながら、そう答えた。


 カシミスとエルメはじっと街の風景を見ている。街は蜃気楼のようにぼやけている。陽のまだ出ているので、湖の色は濃い蒼だ。島に打ち寄せられる波の音以外、何の音も聞こえない。
「どうして、私とあなただけこの島に流れ着けたのかしら?」
「俺に聞かれても困る」
「‥‥そうね」
 エルメはカシミスの顔を見ずに答えた。何かに疲れたような、生返事だった。
「聞いていいか?」
 今度はカシミスが訊ねる。
「何かしら?」
「どうして湖に? 誤って落ちたのか? それとも‥‥俺のように、死にたいと思ったからか?」
 少しためらったが、カシミスは「俺のように」という言葉を付け足した。どうせ、ここには自分とこの女しかいない。今更何を隠しても無意味だ。そう思ったからだった。
 エルメは美しい金色の髪の毛をなびかせながら、カシミスを見つめる。
「あなたのように‥‥死にたいと思ったからよ。私の夫がね、他の女に気を寄せるようになったの。いくら頼んでもダメ。あの人は私を見てくれなかった。だから死んで、あの人を恨み殺してやろうと思ったの。あなたは?」
 淡々と語るエルメ。その態度はどこか強気にも見える。諦めなのだろうか? カシミスはその態度にいい気分はしなかったが、彼女も本音なのだな、と思い笑った。
「俺の妻が死んだんだ。最近流行ってる高熱の出る病気だ。あいつは俺の名を呼びながら死んでいった。俺は何も出来なかった。世界で一番愛していた女だったのに、何一つ出来なかった。だから、死のうと思った」
「ふうん。悲しい事ね、それ」
 悲しい素振りなどまったく見せず、エルメは答えた。カシミスはそれを見てまた笑った。
他人の事なんかどうでもいい。そんな素直な態度に、怒るよりも呆れてしまったからだった。
「君は‥‥素直だね」
「ここに来てまで、嘘な態度するよりいいと思うわ」
 笑うカシミスを見て、エルメも笑った。二人共、砂漠のように乾いた笑顔だった。


 小屋の中には、小さなベッドが一つと、椅子が二つ、そしてテーブルだけが置かれていた。窓も無ければ、生活する為に必要な調理台も無い。室内はまるでつい最近出来たかのように綺麗で、とても数百年前からここにあったとは思えない程だった。
「‥‥食べるものが無いわ」
「俺も君も死にたいと思ってる。なら、食べ物なんて必要無いだろ?」
「それもそうね」
 椅子に腰掛けながら、エルメは自虐的に微笑んだ。
 エルメの隣の椅子にカシミスも腰掛ける。酒も無ければ紙巻き煙草も無い。二人は何をするでもなく、椅子に腰掛けて互いを見つめ合う。
「また‥‥死ぬつもり?」
 エルメは室内を見渡しながら聞く。
「ああっ‥‥。妻が死んだ事に代わりは無い。もうすぐで妻は湖に水葬される。この湖に身を投げれば、あいつの元へ行ける」
「でも、また生き残ってしまうかもしれないわよ?」
「‥‥」
 そう言われ、カシミスは肩を落とす。
 その通りだった。この湖は本来ならば一度沈んだら二度と浮き上がってこれないはずだった。なのに、自分は今ここにいる。不思議とか言い様がない。また身を投じても、もしかしたらまたここに戻されるかもしれない。
「ここにいてもいずれ死ぬ。別に湖に身を投げなくてもいい」
「‥‥そうね」
 他人事のように、エルメは首肯く。
「君こそ、自分を愛してくれない夫を呪う為に死ぬんだろう?」
「そうよ」
「湖に飛び込んでも、また、ここに来てしまうかもしれないよ」
「だったら、何もせず餓死するのを待つわ」
「‥‥そうだな」
 エルメと同じく、カシミスも他人事のようにぼやいた。
 実際、カシミスにとってエルメはどうでもいい女だった。彼女が何をしようとどうでもよかった。死にたいのならば勝手に死ねばいい。何をしようと構わない。ここで出会った事だって確かに運命だが、実に陳腐な運命だ。今すぐにでも死にたい二人を巡り合わせて、
神は一体何をしようと考えているのだろう。カシミスにはそれが分からなかった。
 外がゆっくりと赤く染まっていく。湖の水が次第にその蒼を薄めていった。


「あの小屋、誰が建てたのかしら?」
「きっと、昔も俺達と同じようにこの島に偶然辿り着いてしまった者がいたんだろう」
「彼らは死んでしまったのかしら? だったら、何故死体が無いのかしら?」
「きっと、風化して何もかも砂になってしまったんだろう」
「私達も、近い内にそうなるのね」
「‥‥かもな」
「‥‥何だか、死にたくないような言い方ね」
「そうかな?」
 二人で地面に腰を降ろし、闇の街を見つめる。湖は完全に透明になっていて、空気と水の境目が分からない。湖の底に目をやると、無数の死体が山を作っていた。カシミスとエルメはどちらが言うでもなく、手をつないで、その死体の山を凝視していた。
「‥‥死ぬのって、どういう気分なのかしらね?」
「死んだら、何も考えられなくなる。何かを感じる事も無いよ」
「何も‥‥か。何だか私、少し恐くなっちゃった」
 エルメは子供っぽくクフフッと笑って、カシミスを見た。屈託の無い、綺麗な笑顔だった。カシミスはその時、この女の夫とはどんな人だったのだろう、と思った。まだ若く、綺麗な女だ。なのに、その夫はどうして他の女なんかに気を移らせてしまったのだろう?「また一つ、聞いていいかな?」
「何かしら?」
「どうして、君の夫は君から離れてしまったんだい?」
 普段ならとても聞けない事だ。だが、ここまで来て相手を思いやるのも面倒臭い。どうせ死ぬのなら、その瞬間までは自由にやりたい。
 エルメは夕闇で蒼くに染まった髪の毛をかき上げ、物憂げに語りだす。
「分からないわ、そんな事。私は精一杯やってるつもりだった。夜の生活だって、満足させてたつもりだし。私はあの人に何一つ不満を言ったりしなかった。私の方こそ聞きたいわ。どうして、私を捨てたのって」
「‥‥その男は、最低だな」
 カシミスは心の底からそう言った。自分の為に尽くしてくれる女がいるのに、それに応えない男はカシミスは大嫌いだった。自分はもう尽くされる事など無いのだ。
 エルメは真剣な眼差しのカシミスを見て、子供っぽく破顔する。
「はっきり言うのね、一度だって見た事無い男なのに。でも、あなたの言う通りかもしれないわね。あなたはもう、尽くされる事すら無いんだから」
「‥‥」
「死ぬまで、私が尽くしてあげましょうか?」
「‥‥何だって?」
 悪戯っぽく含み笑いをするエルメ。そこには死の影も何も無い。ただ、若々しい女の色気に満ちていた。カシミスはコロコロと変わるその態度に呆れたが、今は何故かエルメのその言葉がとても心地好く聞こえた。妻を失って崩れ落ちた心の片隅に、エルメという女が流れこんでくるような気がした。
「気持ちだけ受け取っておくよ。君には申し訳無いが、俺にはフロリア以外に愛したいと思う女性はいない」
「フロリアって、あなたの奥さん?」
 エルメの顔は僅かに暗くなる。それは、夕闇のせいではない。
「ああっ。もう、あいつの体はあの骸の山の埋もれているかもしれないな‥‥」
 遥か彼方を見つめながら、カシミスは今は亡き愛妻の顔を思い出す。見ているこっちまでもが笑いたくなるような、愛らしい笑顔が思い起される。あの笑顔はもうどこにも無い。
カシミスの心の中だけで、咲き続ける可憐な花は決して触れる事は出来ない。
 カシミスのそんな顔を、エルメはどこか不機嫌な顔で見つめていた。


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